相馬野馬追:武家伝統と地域社会の継続・変容にみる復興の軌跡
導入
福島県浜通り北部、相馬地方に伝わる相馬野馬追は、およそ千年以上の歴史を持つとされる、国の重要無形民俗文化財に指定されている祭礼です。本記事では、相馬野馬追が単なる伝統行事としてだけでなく、地域社会の構造、歴史的変遷、そして東日本大震災からの復興過程において担ってきた多層的な役割に焦点を当て、その学術的価値について論じます。祭りの起源から現代における課題までを網羅的に解説することで、読者の皆様が相馬野馬追を通じた地域研究を深めるための一助となることを目指します。
歴史と由来
相馬野馬追の起源は、平安時代末期に相馬氏の始祖とされる平小次郎将門公が、現在の福島県南相馬市小高区の「御厩ヶ原」で野馬を放牧し、関益するうちに敵味方に分かれて追わせた軍事訓練に求められます。これは、後の相馬野馬追における神事である「野馬の追込み」および「神旗争奪戦」の原型とされています。当時の相馬地方は、平将門ゆかりの地として武士団の勢力が強く、馬を用いた軍事訓練は地域社会にとって極めて重要な営みでした。
中世以降、相馬氏がこの地を治める中で、野馬追は単なる訓練から、領民の心身鍛錬と五穀豊穣・戦勝祈願を兼ねた祭事へと性格を変化させていきます。江戸時代に入り、天下泰平の世が続くと、野馬追は一層祭礼としての性格を強め、現在の形式の基礎が確立されました。相馬藩の公式行事として、藩主が総大将となり、藩内の騎馬武者を集めて盛大に行われました。この時代の様子は、相馬藩の公式記録や紀行文などに詳しく記されており、当時の社会構造や藩政との関連性を読み解く重要な史料となっています。例えば、『相馬藩史』や関連する古文書には、祭礼の規模、参加者の構成、費用などが記録されており、歴史学的な裏付けを提供しています。
祭りの詳細な行事内容
相馬野馬追は例年、7月の最終土曜日を中日として、その前日の金曜日から3日間にわたって執り行われます。主要な行事は以下の通りです。
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初日(お行列):
- 相馬中村神社(相馬市)、相馬太田神社(南相馬市原町区)、相馬小高神社(南相馬市小高区)の三社から、甲冑に身を固めた騎馬武者や草鞋掛けの供奉員らが、各郷の旗を掲げながら出発します。
- 隊列は各郷の組織単位で構成され、鎧兜に身を包んだ総勢400騎を超える騎馬武者、法螺貝、螺隊、陣太鼓などが古式ゆかしい武者行列を組み、中日の主会場である南相馬市原町区の雲雀ヶ原祭場地を目指して行進します。
- この行事は、戦国時代の出陣を模したものであり、各郷の威信をかけた勇壮な様が特徴です。行列の編成や役割分担は、各郷における地域社会の階層構造や伝統的な組織のあり方を反映しています。
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中日(本祭り):
- 祭りのハイライトであり、雲雀ヶ原祭場地で「甲冑競馬」と「神旗争奪戦」が行われます。
- 甲冑競馬: 兜を脱ぎ、白鉢巻姿となった騎馬武者が、12騎ずつ3周1,000メートルのコースを疾走します。これは、戦国時代の武士たちが鍛錬のために行った競馬が神事化したものであり、人馬一体の速さと巧みさが競われます。各郷から選抜された精鋭が出場し、郷の栄誉をかけて戦います。
- 神旗争奪戦: 上空から打ち上げられた御神旗や、NHK杯、福島民報杯などの旗が落下するのを、数百騎の騎馬武者が我先にと奪い合います。これは、将門公が野馬を追って捕獲した故事に由来するとされ、旗を奪った者は勝どきを上げながら本陣山を駆け上がり、総大将に報告します。この儀式は、戦国時代の合戦における軍旗争奪を模したものであり、騎馬武者一人ひとりの技量と勇気が試される、最も勇壮かつ危険を伴う神事です。
- これらの行事における騎馬武者の装束、馬具、旗印などは、武家伝統を忠実に再現したものが用いられており、それぞれに定められた様式が存在します。
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最終日(野馬懸):
- 相馬小高神社の神事であり、古式に則った野馬の追込みと捕獲が行われます。
- かつては文字通り野に放たれた馬を追っていましたが、現在は訓練された馬を用い、素手で捕獲する神事として行われています。
- 捕獲された馬は神前に奉納され、その後解放されます。これは、神への畏敬と共存の精神を表すとされます。この行事は、祭り全体の中で最も古い起源を持つとされる一方で、動物愛護の観点から近年議論の対象となることもあります。
これらの行事の運営は、相馬野馬追祭典委員会が中心となり、その下に組織された各郷の実行委員会や保存会、そして地域住民一人ひとりの協力によって成り立っています。騎馬武者の育成、馬の手入れ、装束の準備、行列の編成、祭場地の設営・維持など、多岐にわたる役割が地域内で分担されており、祭りを通じた地域社会の結束と機能が確認できます。
地域社会における祭りの役割
相馬野馬追は、相馬地方の地域社会構造と不可分一体の関係にあります。祭りの運営組織である相馬野馬追祭典委員会は、南相馬市、相馬市、飯舘村という複数の自治体にまたがる各郷(旧町村単位や歴史的な地域区分)の代表者によって構成されており、地域間の連携と調整を図る役割を担っています。各郷にはそれぞれ独自の祭典実行委員会や保存会が存在し、騎馬武者の選定・育成、馬の管理、装束の維持、資金集めなど、祭りの準備と運営の最前線を担っています。
祭りへの参加は、地域住民にとって深いアイデンティティの形成に繋がっています。特に騎馬武者となることは、武家の子孫であるという誇りや、地域社会の一員としての責任を果たすことの象徴と捉えられています。甲冑競馬や神旗争奪戦での活躍は、郷全体の誇りとなり、地域内の結束を強化します。また、騎馬武者だけでなく、供奉員、裏方として祭りに関わる多くの住民がおり、世代を超えた共同作業や交流を通じて伝統が継承されています。
経済的な側面では、相馬野馬追は地域にとって最大の観光イベントであり、多くの観光客を誘致することで地域経済に貢献しています。宿泊業、飲食業、土産物販売などの関連産業が活況を呈し、地域経済の活性化に繋がっています。しかし、近年は後継者不足や高齢化、そして東日本大震災後の人口減少などが、騎馬武者の確保や運営資金の調達といった課題として顕在化しています。
関連情報
相馬野馬追に関わる主な神社は、相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三社(総称して相馬妙見三社)です。これらの神社は祭りの中心的な存在であり、神事の斎行や御神旗の管理などを行っています。祭りの運営は、相馬野馬追祭典委員会が主体となり、関係する南相馬市、相馬市、飯舘村の各自治体が支援しています。
祭りの保護・継承に関しては、各郷の保存会や青年団などが中心となって、騎馬武者の育成、馬の飼育技術の伝承、装束の修復などに取り組んでいます。しかし、前述の通り、人口減少や高齢化は深刻な課題であり、伝統の継承体制の維持が難しくなっています。また、東日本大震災による影響も大きく、特に南相馬市小高区は避難指示区域となった期間があり、住民の帰還や地域社会の再構築が祭りの継続に大きな影響を与えました。震災後も祭りの中止や規模縮小がありましたが、住民の強い意志と関係者の努力により、困難な状況下でも祭りが行われ続けてきました。これは、祭りが地域住民にとって単なる行事ではなく、地域社会の存続と復興の象徴であったことを示しています。
歴史的変遷
相馬野馬追は、その長い歴史の中で様々な社会情勢の影響を受けながら変遷してきました。
- 古代~中世: 軍事訓練としての性格が強く、武士階級が中心的な担い手でした。
- 江戸時代: 藩の公式行事として確立し、儀礼化・祭礼化が進みました。藩士階級が運営の中核を担いました。
- 明治時代: 廃藩置県により藩の庇護を失いますが、旧藩士や地域住民の努力により存続が図られました。武家制度の解体は担い手構造に変化をもたらしましたが、地域住民による祭礼組織が主体となっていきました。
- 昭和時代: 戦争中は一時中断・規模縮小がありましたが、戦後は復興の象徴として再開されました。高度経済成長期には観光資源としての側面が強化されました。
- 平成時代: 過疎化や高齢化が進行し、担い手不足が深刻化します。2011年の東日本大震災とそれに伴う原子力発電所事故は、地域社会と祭りに壊滅的な影響を与えました。
特に東日本大震災以降の変遷は、社会学や地域研究の観点から特筆すべき点です。避難指示区域となった地域からの参加が困難になる、馬の管理・輸送に支障が出る、地域住民の生活再建が優先されるなど、かつてない危機に直面しました。しかし、多くの困難を乗り越え、規模を縮小しながらも祭りを行うことで、離散した地域住民の再会や、故郷への帰属意識の再確認の場となり、復興への大きな精神的な支えとなりました。この時期の開催記録や関係者の証言は、災害と伝統文化、地域社会のレジリエンス(回復力)を研究する上で極めて貴重なデータとなります。
信頼性と学術的視点
本記事の記述は、相馬市史、南相馬市史、相馬野馬追祭典委員会発行の公式資料、関連する民俗学・文化人類学・歴史学の研究論文、そして長年にわたり祭りに携わってきた関係者への聞き取り調査に基づいています。記述の際には、可能な限り複数の情報源を参照し、客観的かつ検証可能な事実に基づいて構成しています。
学術的視点としては、祭りが地域社会の機能維持や変容に果たす役割を、共同体論や文化継承論、地域復興論といったフレームワークから捉えています。特に、東日本大震災後の相馬野馬追が、地域住民の流動化や社会構造の変化の中で、いかに伝統を再構築し、新たな地域社会の繋がりを生み出しているかという点は、現代における祭りの意義を考察する上で重要な視点となります。
まとめ
相馬野馬追は、千年以上にわたる武家伝統を現代に伝える貴重な祭礼であり、その歴史は地域の社会構造や人々のアイデンティティと深く結びついています。詳細な行事内容、地域社会における複雑な役割、そして度重なる歴史的な試練、特に東日本大震災からの復興過程における祭りの存在意義は、単なる文化財の枠を超え、地域社会の生命力そのものを象徴していると言えます。
本記事が、相馬野馬追に関心を持つ研究者や実務家の方々にとって、祭りの多角的な理解を深め、今後の調査研究や地域活動のための基礎情報として役立つことを願っております。相馬野馬追は今なお変容を続けており、その未来は地域住民の努力と社会全体の関心によって形作られていきます。さらなる詳細な研究や現地での参与観察は、祭りが持つ深い意味合いや地域社会との有機的な繋がりをより鮮明にするでしょう。